青山ネット


#1 青山「私のいちじかん」

 午後一時半。わざと遅めの時間に昼休みをとったのは正直珍しい。
 会社を出ると、まさに昼食を済ませ、帰社してくるサラリーマンやOLたちのグループとすれ違う。青山ともなると、男性はタイトな形に少し色数が多めのビジネススーツ、女性は本当にOggiとかBAILAのような女性ファッション誌に載っている服装そのままで闊歩してくる。かく言う私も、先ほど女子更衣室から、皆とさほど違わない、ベルトを後ろで結んだ、ベージュのトレンチコートを羽織って出てきたわけだが。

 先日やっと購入してみたiPhoneを起動し、音楽をかける。インナーイヤホンを耳にすると、外の音が一気に聞こえなくなり、女性ボーカルの英語のメロディが頭を支配し始めた。
 青山通りを外苑前から、ひたすらまっすぐ歩く。五月の春風が向かいから吹き降ろす。一昨日切ったばかりの前髪が乱れるのが嫌で、露骨に眉をしかめた。

 特に何があったというわけではない。仕事も、同僚の関係も、上司も、私が通常業務を粛々と行うことの枷にはならない。とりたてて不満があるわけではない。ただ、嬉しいことも、誰かに褒められることも、無い。
 しいて言えば、先ほど会社を出る前に、上司が「最近、少し痩せたんじゃない?」と言ってきたくらい。事実、最近はじめたランニングが効いてきたのか体重は減少傾向にある。お世辞にも嫌味にも聞こえなかったが、好意を寄せているわけでもないので、「そうですか?」と半端な返答をしてしまった。
 どこかのカフェでランチでもよかったが、ひとりでいる所を社内外の誰かにも見られたら…等と、うかうか考えている間に表参道の交差点まで出た。交番の方に曲がろうかと目をやると、サンドイッチショップが目に入った。なるほど、その手もあるか。ささっと入り、アボガド・ベジサンドとコーヒーをテイクアウトで頼む。わさび醤油ソースをかけるのが通例だそうだが、バジルマヨネーズにしてもらった。今年付き合って二年目になる彼が、「こうすると美味しいよ」と、先日薦めたものだ。薦められて試さないのも、無視しているようだったので、いつか試そうと思っていたところだった。そんな彼とは今日は未だメールすらしていない。
 店を出て、横断歩道を渡って少し行ったところに、小さな広場があった。レストランと花屋と洋服屋と雑貨屋が囲む小さな広場。ここにベンチも置いてあったことを思い出したのだ。偶然、三つあるベンチに対して私一人。いざ座ろうとしたところで、携帯に実家にいる母親から着信があった。悪いとはおもったが、イマイチ取る気分になれず放置していると、しばらくして着信を知らせるバイブレーションは止んだ。

 どっかりと、木製のベンチに腰掛けた。背もたれに、ぐっと背中を押し付けると、目線が自然と上に向き、空と、ビルと、広場に植えてある木々の緑が少し、視界に入ってきた。バタバタバタと遠くで音を立てていたヘリコプターが近づいて来、直線を引くように視界の空を横切った。小さく見えるそれを、今日はなんだか掴める気がしたのか、自分でも分からないが、ごく自然に右手が上天へと伸びた。
 ふと、今まで聞き流していた音楽に意識が向く。インナーイヤホンから直接響くヴァネッサの声。深く短く息をつぎ、「Take my hand…」と、まるで私の中の何処かが望んでいるように、切なく歌い上げた。春風が、するりと横切り、一昨日切った前髪も、肩まで伸びた髪もいっぺんにさらって行った。  少し驚いて瞬きをすると、新鮮な空気が、肺の中に入ってきた。意外と東京にも緑があって、ただ優しい風を感じる。それを小さな贅沢のように感じた私は、大きく膨らんだ風船の空気を、そっと抜くように、細く長く、息をはいた。
 心が少し落ち着いて、イヤホンを外すと、青山通りを走る車や人々の喧騒が、うわっと耳に押し寄せた。でも、木々の葉がそよぐ音も、微かではあるが同時に聞こえたことが、素直に嬉しかった。
 アボガド・ベジサンドは、味にうるさい彼氏が教えてくれただけに、やっぱり美味しかった。あとでメールで伝えよう。無視してしまった母の着信は、このあと直ぐに掛けなおそう。
 …さてと。そろそろ一時間。帰社する時間。…そうだなあ。ぐるっと散歩してから戻ろうかな。こないだ近くにfranc francが出来たんだっけ。

「東京ショート」とは?
毎回magcafe at garden(マグカフェ・アット・ガーデン)の楽曲の中から一曲を題材に、ショートショートを連載。楽曲の試聴をすることも出来ます。

「私のいちじかん」。この楽曲の歌詞と試聴はこちら→http://www.youtube.com/watch?v=vdofJIPtzTg